アルソレア馬事公苑
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憧憬を集める邸宅街としての歴史が、暮らしやすい環境であることを証明する世田谷エリア。
現地周辺は自然環境に恵まれているだけでなく、教育施設やショッピング施設をはじめ快適な日々を実現するロケーションとなっています。

サミット桜店(約480m)
オダキューOX(約1,060m)
スーパーマーケットオオゼキ上町店
(約930m)
スーパーマーケットライフ経堂店
(約920m)
     
     
大丸ピーコック(約1,020m)
 
小田急「経堂」駅(約1,030m)
 
桜木中学校(約520m)
 
桜小学校(約800m)
             
世田谷区は、東京23区の西南端に位置し、区の大半は「武蔵野面」と呼ばれる台地により、地形が形成されています。
江戸中期以降、江戸城近郊の農村として繁栄。自然が豊かで良好な住環境であったことから、
古くから徳富盧花や志賀直哉、萩原朔太郎、柳田国男など多くの文化人がこの地を愛し、住処を構えてきました。
昭和7年、「世田谷区」が誕生。関東大震災や小田急線の開通を境に宅地化が進み、人口が急増。
やがて、「成城」が高級住宅地として脚光を浴び、
世田谷区は、ハイセンスな街や人、暮らしの代名詞として人気を博してきました。
現在でも、都心への交通利便性や閑静で落ち着いた街並、潤いある自然、充実した公共施設や教育施設など、
恵まれた環境を誇っています。

古色深い天祖神社で、祭神は天照大神・宇迦御魂神・菅原道真公です。もとは「伊勢の宮」といわれていましたが、明治時代中頃、祀られている神様・天照大神の「天」と、氏神・先祖の神様の「祖」を合わせて天祖神社となりました。鳥居をくぐると、右側に小さな祠があります。これは三峯社といい、お使いはお犬様です。

砧公園は、「家族ぐるみで楽しめる公園」をテーマに造成された大規模なファミリーパークです。豊かな緑にあふれ、野球場兼競技場やアスレチック広場などの運動施設を備えています。その一角に世田谷美術館があり、年間を通して、区ゆかりの美術家の作品の展示や幅広い分野の芸術を紹介する企画展などを開催しています。
江戸時代の中頃、周辺の村で悪病が流行し死亡者が続出しました。そこで、当時の住職が方々から寄付を集めて百体観世音を作り祀ったところ、悪病が癒えたという言い伝えが残っています。年に数回、地元の人たちによる「経堂音楽の夕べ」という会が開催されるなど、地域と密着したお寺です。
     
建武2年(1335年)に世田谷吉良氏の祖・治家が開基し、臨済宗金谿山竜鳳寺といわれていました。墓地中央部の一角に、吉良家の墓所があります。しかし、現在並べられている宝篋印塔は震災などの影響により、正式な組み合わせではありません。また、山門の右手には、竹垣に囲まれた見事な竹林が広がっています。

世田谷領主井伊家の江戸の菩提寺です。世田谷城と丘続きのこの寺は、もとは城内の小庵でした。境内の左奥には、都指定史跡の井伊直弼の墓があります。仏殿横の招福堂では招き猫が右手をあげて福を呼んでいます。4月8日の花祭りには、見事な桜に誘われて大勢の人々が訪れます。
南北朝時代、初代吉良氏が関東管領・足利基氏から戦の手柄として、武蔵国世田谷領をもらいうけて築城した場所といわれています。以後、二百数十年間にわたり、吉良氏八代の居城として栄え、中でも全盛期を迎えた七代目・頼康のときには、南関東の産業・交通の主要な拠点となりました。
     
代官屋敷は、江戸時代中期以来、彦根藩世田領二十か村の代官を務めた大場家の私宅で、旧彦根藩大場代官屋敷ともいいます。郷土資料館はその敷地内にあり、所蔵する古文書や農具など民俗資料の展示を行っています。また、考古学・美術史・古文書解読などの歴史講座や史跡をめぐる野外歴史教室などを開催しています。

天正18年(1590年)、秀吉の攻略により後北条氏の小田原城が落城したのに伴い、所領を没収された吉良氏八代目・氏朝が隠居したところとして知られます。墓地の片隅には、二・二六事件で暗殺された高橋是清の鬚の墓があります。緑豊かな境内には、ヒヨドリ・オナガドリ・ムクドリなど、多くの野鳥が訪れます。
 
 
     
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